「結局何が大切か」について考えてみました

変化の激しい世の中でついつい自分を見失いがちですが、そんなときは普遍的なことから出発するとよいかもしれません。

「ヒトは必ず老いて衰えて死ぬ(ヒトである前にドーブツ)」「いつ死ぬかわからない」「1日に与えられているのは24時間」の3つです。

平等である時間をうまく使うためにも、体力と健康が重要ですし、それによって自分と異なる多様な価値観を受け入れる余裕が生まれると思われます。

できるだけ若いうちにそれに気づき、実践できるかが大きな分かれ道かと思います。

根拠レスな楽観

ヒトは必ず老いて衰えて死ぬこと、しかもいつ死ぬかはわからないことは誰もが知っていて、自分の周りで絶えず起こっているのに、なぜか自分自身のこととなると正面から受入れられないものです。

どんなに品行方正で信心深い生活を送っていても、ストイックに節制を続けていても、災害や不慮の事故や病のために不本意に寿命を迎えてしまうこともあることを私たちは知っています。にもかかわらず、相当な悲観論者でさえ明日も今日と同じであることが前提になっています。とはいえ、そうでも考えてないとやっていけない面もあります。

老いるとは

幸運にも戦禍もなく被災もせず健康に生きてきたとしても、ドーブツである以上日々確実に老いています。

フィジカルのみならずメンタルでも。

さて、年長者ならば、いやしくも多くの人生経験をしてきたわけですから、より多角的にモノゴトを分析判断し適切な言動ができるはずなのに、なぜか「アタマが固い」と評価されてしまうことが少なくありません。ひょっとしたら老いによって合理性や理性を司る部分が衰えて自分の感情というか本能的な部分が抑えられなくなってしまうのでしょうか。

なにかとスマートな社会になって、愚直な体力勝負や精神論が唾棄される傾向にありますが、スマートゆえにクリエイティブな発想や新しいテクノロジーへの対応が求められています。

ところが老いてくると、新しいことを始めたり受入れることが面倒臭くなり、なかなか理解できなくなってしまいます。

よっぽど意識していたとしても、特にメンタル面での老いを自分で明確に自覚することは困難なように思われます。

若いときあれほど反発していた年長者世代にいざ自分がなってしまうと実はほとんど変わらず、「まだまたオレは(アタシは)若い」「今の若い連中は何なんだ」となります。

時間の使い方

「ヒトは必ず老いて衰えて死ぬ」「いつ死ぬかわからない」「1日に与えられているのは24時間」だとすると、結局「いかに時間をうまく使えるか」がポイントだと思われます。

「時間をうまく使える」というと、すぐに効率性とか意識高い系のお話に結びつきがちです。

ビジネス的には、「同じ結果ならいかに短い時間で出せるか」「同じ時間ならばいかに高いクオリティの結果を出せるか」ということになります。

しかし、「いかにダラダラでテキトーな時間を作れるか」のほうが重要だと思います。

楽しい時間を許されるかぎりずっと過ごしたり、いつまでもダラダラのんびりしていたり、逆に困難なことにたくさん時間をかけて悩んだりするなどです。

だとすると、早く終わらせたほうがいいことはより早く終わらせることが重要ではないかと思われます。

時間だけが平等なわけですから、早くできるということは他のことに時間を使えるため、他のことをしたり、あるいはボケーッとリラックスできます。

早くできるということは、早くあきらめられるということでもあります。長く時間を費やしてしまうと、「あきらめてしまうとそれまでの時間(人生)は何だったのか」となってしまい判断を誤ることが多々あります。

余裕とは

日進月歩なテクノロジーの発達で、私たちの生活は日々向上しているように思われます。

とはいえ、ドーブツとしてのヒトが進化したわけでもありません。目や手足の数は大昔から同じままです。

ドーブツである以上、ベースは体力とそれを支える健康ということになろうかと思います。

健康に不安を抱えていたらいい判断もできませんし、食べたいものや飲みたいものも(能動的ではなく受動的にやむなく)ガマンしなければならず、ムリもできません。

これでは自分に余裕がなくなり、新しいことに貪欲に挑戦したり、正しい判断をしたりすることが難しくなります。

しかも、多様な価値観を受け入れることが大切とされる現代において、自分に余裕なくして、自分と異なる価値観をどうして受け入れることができましょうか(聖人君子である場合を除きます)。

ヒトとしての価値観は多様でも、ドーブツだけに必ず老いることは普遍なわけです。一刻も早く若いうちに気がついて、ハッキリと意識して日々を過ごせるかどうかが、大きな分かれ道だと思います。

人生百年となればなおさらです。 不摂生の果てに通院や入院で時間とおカネとストレスを垂れ流していると、とてつもない差となります。

さて、先ほど申し上げた時間の使い方として、早く終わらせたほうがいいことをより早く終わらせるには、すべてのヒトが同じ能力だと仮定すると、フィジカル的にもメンタル的にもより多くのエネルギーが必要になります。

すると、やはり体力と健康が出発点ということになります。

大局的には、体力に余裕があるうちにできることと、体力に余裕がなくてもできることがあります。経済的制約や時間的制約のなかでいかにやりくりしていくかも重要ではないかと思われます。

長い目で見れば有意義な人生を送れる可能性が高まるかもしれません。

とはいえ、最終的にはドーブツではなくヒトとしての選択の問題です。

( おわり )