「他人(相手)の立場になって考える」について考えてみました
「他人(相手)の立場になって考える」・・・聖人君子でもないかぎり、自分に余裕なくして他人(相手)の立場に立つのは困難ではないかと思われます。
自分に余裕を持つためには、けっきょく「哺乳類」としての健康と体力だと思われます。そして、逆説的ですが、余裕を持つためには、自分の限界を高めるハードな努力が必要だと思われます。
「普通〇〇だろ」の「普通」は本当にフツーか
「他人(相手)の立場になって考える」・・・ビジネスにおいても社会生活一般においても極めて重要とされることですよね。
年齢を重ねると、どうしても自分の経験とか専門分野(があるとしたらこれ)をベースにものごとをとらえてしまいがちな気がします。
「普通はこうだろ!」と他人を罵倒するシーンにも直面しますが、「普通ってそもそもなんだよ」って気がしますし、「普通こうだろ?」って同意を求める相手が実は似たよな価値観の人たちだったりします。
怖いのは、「自分の経験や価値観や先入観というフィルターを通してものごとを見ている、考えている」という自覚症状がないということです。
つまり、本当の背景や、本当に解決しなければならないことを見落とすおそれがあるということなのです。
相手にも事情がある(かも)
自分が狭量さを踏まえてもなお、明らかにイラッとする対応をされたとします。
ただ、相手は、所属している組織の一員としての立場でやむをえずそういう言動をせざるをえなかったかもしれません。
あるいは、プライベートでものすごくキビしい境遇に置かれていてついそのような言動をしてしまったのかもしれません。
相手を批判・罵倒するのはたやすいです。しかし、相手の置かれている状況をすべて理解したら、はたして自分は違う言動ができるのかどうか自信が持てないこともあります。
キビしいノルマを課せられているでしょうし、少なくとも組織内での自分のポジションや、養うべき家族のことなどもろもろが背景にあるわけです。
仕事を離れればまったく別人でものすごく気が合う間柄かもしれないのです。
だとすると、利害対立関係にある相手との争いでは、相手も組織の一員だということを考える必要があります。
立て続けに正論に正論を重ね、相手を完膚なきまでに追い込むことで悦に入る心境もわからなくもないですが、「相手が上司に仕事したと報告できるようにするにはどうすればよいか」「どうすれば相手の属する組織で承認してもらえるようにできるか」を考えるのが重要だと思いますし、それによってかえって双方ともにそこそこ納得する解決もあるのではないかと思われます。
自分に余裕がないとムリ
他人(相手)の立場になって考えられるためには、よっぽどの聖人君子か、ある程度自分を棄てないかぎり、自分にある程度余裕がなければキビしいのではないでしょうか。
一般市井のならず者としては、ほんのちょっとでも他人(相手)の立場になって考えられるためには、やはり自分に余裕、つまり、キャパシティがなければと思っております。
キャパシティがないと、自分とは異なるもろもろを受け入れられず、ストレスを感じてしまいます。
やはり気の合う仲間、似たよな価値観の人だけではなく、さまざまな世代、さまざまな境遇、さまざまな価値観をお持ちの方のさまざまな考え方に接するようにしないといけないと思ってます。
いっぽうで、「こういう考え方もあるのか」と知ることは大切でも、何から何まで共感する必要はまったくないと思います。
「理解すれども共感せず」ということです。
いろいろなことにチャレンジしてみることも大切だと思っています。ある程度ハマってみることで、その道を極めている方がどれだけ凄いのかをより強く感じ、心からリスペクトすることができるからです。
「余裕」のために「限界を高める」
そして、余裕をもつためには、つまるところ、最後は健康そして体力だと思います。
崇高な精神をもった「ヒト」よりも、まず「哺乳類」としてどうかということです。
自分の健康に不安を抱えていたら、他人(相手)の立場になって考える余裕がそれだけなくなるのではないかと思います。
体力でもっとも大切なのは、時間を詰める集中力にあると思います。
不平等・不公平な世の中ですが、今なお普遍的なものは「時間は平等で1日24時間」「人は必ず死ぬ」です。
格差がどうのこうのというなかで、唯一といっていいほど万人に平等に与えられているのが時間です。他人が1時間かかるところを30分で終わらせるには要領もありますが集中力が要ります。集中力を出すためにはやはり体力だと思います。
スピードがあって、時間を効率よく使うことができれば、より余裕が生まれると思います。
さて、どんな崇高な精神の境地に達しようが、ヒトは必ず老いて病んで死ぬ動物です。 残念ながら体力はほうっておけばどんどん衰えてしまいます。体力を維持するよう努力しなければなりません。
逆説的ですが、常に余裕をもっていられるようにするためには、常に自分の限界を高める(維持する)ハードな努力が必要だと思います
( おわり )