表現の自由と努力話

そもそも努力といっても、それが自分自身が自発的に選んだ道である場合は、努力することは当然なんですよね。 努力とは、不平等な世の中で、自分の出自などの境遇や能力のなさをカバーするための当然の営みといえます。

自己表現の手段が多くなり、自由にかつ容易に自分を表現できるようになると、他人から承認されたいという欲求から自分の優越感(だと思っているとすればこれ)を表現したところ、実は同時に、図らずも自分の境遇や能力、気が付かない劣等感をも表現しているかもしれません。

いい時代

幸いなことに現在のところ表現の自由が認められています。

しかも、SNSの発達等により、誰でも自由に容易に自分を表現することができます。

本当に私たちはすばらしい時代を生きているといえます。

別れ話で

さて、たとえば男子が女子に自分を知ってもらい好意を抱かれようとするツールのひとつとして、自分の現在または過去の努力話(主として自慢話と同義の場合が多いといえます。)があります。

私も若い時は、親しい女性や好意を抱かれたい女性に自分の努力や仕事の話をよくしたものです。

これだけ辛い思いをした、とか、これだけがんばった、とか・・・

20代後半の頃、親しかった女性との別れ話の流れで、「あなたは一生懸命努力して一生懸命お勉強してきて結果を出して、それはそれで立派だけど、アタシの周りにはそんなに努力とかお勉強しなくてもそこそこの人がいっぱいいるから」と言われました。

なぜかショックも怒りもなく、むしろ心の底からなるほどその通りと思いました。

それ以来、女性のみならず他人に努力話のようなものを自分から進んで話すことは一切なくなりました。

自ら選んだ道

努力するということは素晴らしいことですが、そもそも努力といっても、それが自分自身が自発的に選んだ道である場合は、努力することは当然なんですよね。

その道が困難であればあるほど。

少なくとも、まったく自分に落ち度がない不運な境遇から非自発的に努力せざるをえなくなった人のそれに比べれば取るに足らないともいえます。

実は、世の中ものすごく不平等で、そうでない人がどんなに努力しても得られないものを、まったく努力することなく得ている人はたくさんいます。それは出自など自分の力ではどうすることもできないものだったり、アタマやカラダのポテンシャルの高さだったり・・・

とすると、努力は、自分が選んだ道であればなおさら、自分の出自などの境遇や能力のなさをカバーする当然の営みといえます。

努力そのものも能力のひとつであることは疑う余地はありません。しかし、能力があれば、スピードがあれば、恵まれた環境があれば、努力は要らないわけですから。

優越感のつもりが・・・

そんな当然のことを他人に誇らしく語るのは、本人にとっては承認欲求の表れそのものですが、聞く人によっては「ああこの人はこの程度の人なのか」「この人はそういうコンプレックスがあるのか」ということを悟られてしまうともいえます。

自己表現の手段が多くなり、自由にかつ容易に自分を表現できるようになると、他人から承認されたいという欲求から自分の優越感(だと思っているとすればこれ)を表現したところ、実は同時に、図らずも自分の境遇や能力、気が付かない劣等感をも表現しているかもしれません。

「結果を出すか出さないか」ということであれば、結果を出したほうがよいとされますが、今度は結果を出したのなら、どれだけの期間でそれを達成しましたかということになると思いますし、同じ期間で達成したのなら、どれだけエネルギーを使わずに達成できましたかということになると思います。

たしかに、すごく努力や苦労をした人にかぎって、自ら努力を語ったり、苦労を見せないものなんですよね。

そして、もともと能力がある人にかぎって、めちゃめちゃ努力もするもんなんですよね。

そりゃあ世の中不平等なわけです。

( おわり )