「重大な決断の前に検討したいこと」について考えてみました
価値観が多様な現代では、いろいろな迷いから、重大な決断をしなければならないことが来ることがあります。
しかし、その決断が重大で厳しいものであればあるほど、あらかじめ検討しておきたいことがあると思われます。
フクザツな世の中でもなお普遍的なこと
さまざまな情報が氾濫し、多様な価値観に触れ、新しい常識がどんどん生まれそして廃れていく・・・そんなフクザツな世の中にあって、ドウブツたるヒトに普遍なことがあります。
- ヒトは必ず死ぬが、その時期はわからない
- ヒトには1日24時間が等しく与えられている
あらゆる決断や判断は、この普遍的なものから出発すべきです。
自分をしっかり持つ
フクザツな世の中では、これまで以上に「自分をしっかり持つ」ことが大事だと思われます。
自分をしっかり持っていないと、いろいろな価値観に翻弄され、そのたびに迷い、人生そのものがブレてしまうおそれがあります。
人生がブレることじたいはオカしいとは思いません。自分の意志でしっかり考え、リスクを取り、それまでの人生を棄てることは勇敢ですばらしいことです。ただ、自分の意志に反して、あるいは、自分ではどうすることもできない運命によって、不本意ながら人生がブレることも多々あります。その究極が、望まないタイミングでの死といえます。
さて、自分をしっかり持ちながらも、意識していなければならないと思われるのは次の点です。
- 自分自身との関係では、「自分(の考え)はたいしたことないかもしれない」「間違っているかもしれない」という意識
- 周囲や世間との関係では、自分が正しいと思うことが必ずしも他人も正しい思うとは限らないという意識
決断の前に検討したいこと
自分の信ずる道を歩もうと決意し、そしてそれを実行するのは容易なことではありません。
その道が困難であればあるほど、リスクが高ければ高いほど、時間がかかるものであればあるほど、相当なエネルギーが求められます。
まして、自分の置かれた境遇からのなりゆきではなく自分自身が積極的に選択したものであったり、周囲から猛反対されたり、目標達成には自分の力だけではどうしようもない要素があればあるほど、より悲壮なものとなります。
ところが、キケンなのは、次の点を十分に検討しないままとりあえず決断してしまうことです。
- 何がやりたいのか
- 客観的に目標を達成できる可能性はどの程度か
- 目標を達成するための行程をイメージできているか
- 決断したことで何を失うのか
- うまくいかないときにあきらめる場合の判断基準を明確にしているか
- あきらめた後はどうするか
1.何がやりたいのか
あらかじめ自分は何がやりたいのかを明確にしなければなりません。
たしかに、私も含めて、とりあえず逃れられない状況に自分を追い込まないとヤル気が出ない人もいます。しかし、自分を追い込むことと「何がやりたいのか」を十分に検討することとはまったく別問題です。十分に検討すれば、あえて大きな決断までは要らないこともあるのです。
実現が困難とされる目標であればあるほど、成功しないリスクが大きくなります。目標を達成するのにどのくらいのリスクがあるのか、そこまでリスクを負う必要がそもそもあるのか、そこまでしてでもやりたいことなのか、リスクに見合うリターンはあるのかなどをよく考える必要があります。
おカタい話は抜きにすると、ぶっちゃけ、世間から評価されたい(尊敬されたい、モテたいなど)ということがリターンだという考え方もあるでしょう。
2.客観的に目標を達成できる可能性はどの程度か
目標を達成するためには努力が必要です。努力には、精神力のみならず、もろもろの能力が必要です。
その精神力やもろもろの能力があるのかどうか、それまでの人生経験が参考になります。自分は何が得意で何が不得意なのか、何が長所で何が短所なのか、少なくとも主観的にわかるはずです。ヒトは自分に甘いのが常なので、ポジティブなことは何割か割り引き、ネガティブなことは何割か割り増す必要があります。
次に、目標を達成するにあたって重要なのが、おカネです。目標を達成するために必要なおカネがどのくらいなのかを検討しなければなりません。おカネがどのくらいかかるのかによって、決断そのものに影響を与えます。
おカネをかけずに目標を達成するにこしたことはありませんが、それは「目標を達成した後」での話です。まずは、目標を達成することが最優先です。
さらに、目標を達成するにあたって重要なのが、時間です。目標を達成するために必要な時間がどのくらいなのかを検討しなければなりません。
他人との争いがからむ場合、他人から時間的にずっと遅れを取っていることもあります。誰にも時間は平等なので、時間的な不利を打ち破るためにはそうとうなエネルギーが必要です。
また、時間をかければかけるほど、失うものも多くなります。先ほども申し上げましたが、この激変する世の中では、その目標そのものが消滅したり社会的価値が大きく低下するおそれがあります。
また、「期間」のみならず「タイミング」も重要になってきます。自分自身のみならず、経済情勢や社会情勢などにも影響されることもあります。
3.目標を達成するための行程をイメージできているか
目標を達成できる可能性がある場合、次に(あるいは同時に)、どのように目標を達成していくのかの行程を明確にしているかが重要です。
自分の動機なり信念はまことにご立派なのに、では実際どうやってそれを実現していくのかについてはストンと抜け落ちている状況は、ビジネスの場でもままあります。
自分の能力、おカネ、時間を考えながら、行程を作らなければなりません。 行程によっては、決断のタイミングにも影響を及びますし、決断そのものをしないほうがよいという結論もありえます。
行程といっても、現実はうまくいかないものです。それでもなお必要なのは、あきらめる判断基準にも利用できるからです。
4.決断したことで何を失うのか
成功するしないにかかわらず、決断によって必ず失うものがあります。
その目標の困難さによっては、決断することで現在所属しているコミュニティ(職場など)から離脱せざるをえないことも考えられます。
誤解を受けたり、批判されたり、社会的信用が低下するかもしれませんし、家族や近しい人に心配や迷惑をかけることになりえますし、愛する人との別れもあるかもしれません。
しかし、本当に勝負どころの場合は、そんなものすら失ってもしかたないという強い意志が必要なのかもしれません。
実は、それらよりももっと深刻なものが失われます。それは、その目標達成のために使われる時間です。
一生のなかで今この時は二度と戻ってきません。成功したからといって取り戻せるものではありません。
「今しかできないこと」と「別の機会でもできること」があります。「今しかできないこと」は、もし別のことをやっていたら得られていたであろう喜びや楽しみなどが犠牲になります(機会費用)。ただし、これをポジティブにとらえ、機会費用があるからこそ、これを目標達成へのパワーに変えることは十分可能です。
5.うまくいかないときにあきらめる場合の判断基準を明確にしているか
ここが抜け落ちている人が多いように思われます。
「目標を達成するために決断をするのだから、目標を達成できないことなど考えない」「目標を達成するまでやめない」というもっともらしい理屈があります。
世の中、自分の思うようにいかないものですが、思うようにいかないときほど、どのタイミングであきらめるかの判断基準をしっかり持っていなければならないと思われます。
それは一定の期間が経過したとか、これまでの進捗の状況とかです。
キケンなのは、期間が長ければ長いほど、先ほど申し上げた機会費用も増大し、「ここであきらめてしまうと今までの時間はなんだったんだ」となってしまい、やめるにやめられなくなることです。「あきらめたら、それまでの人生がムダになってしまう」という心理状態にもなりがちで、ズルズルズルズル続いてしまうのです。
「目標を達成する」という結果が重要なのに、いつのまに「困難なことにずっとチャレンジしている」ことにこだわり、そういう自分自身に酔ってしまう人もいるように思われます。
冷静に、実現可能なのか、あらためて現在の到達度や今後の見通しを冷静に分析すべきです。
あわせて、自分の状況によって(客観的に)迷惑をかけている人たちのことも考慮すべきです。
6.あきらめた後はどうするか
「目標を達成するために決断をするのだから、目標を達成できないことなど考えない」「目標を達成するまでやめない」のは自由なのですが、もし目標が達成できず、あきらめた場合には、その後にどんな人生の選択肢があるのかを考えておく必要があります。
実現可能性や、断念した後の選択肢の検討によっては、やはり決断を思いとどめるということもあるのです。
ところで、一般論として、失敗した場合に備えて、どこかのコミュニティに所属したり、現在の所属先に所属しつづけることがあります。組織だったり学校だったり・・・。
目標が困難であり、どんなに努力しても報われないこともあるような場合には、リスクヘッジは重要なので、それはそれで間違ってはいないと思います。
一方で、完全に退路を断った状況に追い込まれることで、本当の勝負どころ、本当にキビしい状況での「こんなことでダメになってたまるか」「今までの苦労がムダになってたまるか」「なんとかしなくちゃ」というハングリーさから、成功へのアイデアなどが浮かんでくることもまた、ないわけではないと思われます。
もう一度あらためて検討してみましょう。
自分の正しいと信ずる道を貫こうと真摯な努力をする、自分の正当性を自分の成功によって証明する・・・まことに立派なことです。
いっぽう、一度決めたことに固執しすぎたり、自分と異なる価値観、とりわけ、自分が身を置いている組織やコミュニティの価値観にまったく調和しないのも、それはそれでもったいないことだと思われます。
たとえ不本意でも、異なる価値観や現状とある程度折り合いをつけながら自己実現を図っていこうとするのもまた処世術かもしれません。
この折り合いの付け方、割り切り方がオトナとしての成長の証であり、逆に、世の中に毒され堕落した証なのかもしれません。
実は、優秀な方ほどそういう考えをお持ちのような気がします。そりゃあ世の中がなかなか変わらないのもわかります。
重大な決断ほど、迷いを断ち切るため、どんどん考え方が狭く過激になっていきます。冷静さを失い、心配する近しい人のアドバイスもあえて聞かなくなってきます。
いっぽう、第三者のほとんどは「安定を捨ててあえてリスクに挑む」「一度きりの人生だから」「夢に向かってがんばる」ことに賞賛を送ります。しかし、賞賛を送るのは、自分にはそれができないからというリスペクトもありますが、冷めた目で見れば、その人が失敗したところで自分には関係ないからという面もあるでしょう。
決断し、実行する前に、今一度よく考えることをオススメします。
まったく参考になりませんが私の経験を申しますと、上司に退職したいと打ち明ける寸前に「その場の勢いじゃないよね?」「後悔しないよね?」と何回も自問自答しました。いったんそれを口にしたら、もう後には引けないとわかっていたからです。社会人になってまだ2ヶ月ちょっとの時でした。
(余談)いわゆる努力自慢について
さて、自分の信念を貫き、成功を収めた人が、過去の自分の努力について語る場面はそこらじゅうにあります。
その真摯な努力については感銘を受けますし、参考になることも多々あります。
ただ、ちょっと考えてみたいことがあります。
その努力は、自分が積極的に選択した目標の達成へのプロセスであることが少なくありません。この場合、自分で選択したものなんだから努力するなんて当たり前だという考え方もあります。
その努力のレベルも、個人の能力や置かれた境遇によって大きく異なるといえます。
仮に、その努力が主観的だけではなく客観的にもスゴいものであっても、世の中にはもっとスゴい能力の人はたくさんいますし、恵まれた境遇にある人は、努力そのものも要らないわけです。
表現の自由が保障されている現代では、誰もが自分の考えを自由に外に発信することができます。また、どんな努力であってもそれは尊いことであり、軽重はないと思います。
ただ、過去の自分の努力を語る場合には、冒頭申し上げました、自分自身との関係で「自分(の考え)はたいしたことないかもしれない」「間違っているかもしれない」という意識、そして、周囲や世間との関係では、自分が正しいと思うことが必ずしも他人も正しい思うとは限らないという意識についていったん検討したほうがよいのかもしれません。
また、過去の努力をどうしても発信したい場合、(聞かれてもいないのに)自分から語ってしまうのか、他人に語ってもらうのかという選択肢もありますし、また、過去がどの程度過去なのかによっても、受け手の印象は異なると思われます。
( おわり )