業務方針(差別化要因)

近年はWeb上から専門的知識は容易に入手することができます。このことは、少なくとも知識面では誰でもすぐにプロレベルに達しうることを意味しています。すると、いわゆる専門家の重要な生命線は接点の攻防(現場での実務)と考えております。

何より「現場のプレーヤーのコメント」と「評論家のコメント」では相手に対する説得力が異なると考えられます。

清・濁・虚・実のバランス

「なんでこんないい加減なんだ」「なんでこんなだらしないんだ」「なんでこんなことをしているんだ」

たしかに、文字通りの場合も多々存在します。しかし、傍から見るとそう思えても、いろいろな内部的な事情や人間関係を考えるとそうせざるをえなかったということもまた少なくありません。

けっきょく、ニンゲンもまた感情の動物であり、つねに合理的ではありません。

コンプライアンスは重要ですが、杓子定規ではどうすることもできないことも多々あります。

現状を踏まえて、「どこまでが許容されるのか」「許容されている線を超えている場合にはどう収めていくのか」が重要だと思います。

「清」「濁」「虚」「実」の4つの極のなかで、状況に応じていかに柔軟にポジショニングできるかが重要だと考えます。

専門分野とはなにか

「専門分野は〇〇」とか「〇〇に特化」というのには違和感を抱いております。と申しますのも、専門分野(があるとすればこれ)を究めんとすればするほど、その専門分野以外のことにも精通していなければならないと思うからです。 そうすると、逆説的ですが、専門分野とやらを究めるほど、「〇〇が専門分野だ」とはいえなくなると思われます。

私は、その筋の専門家を依頼する場合にも、ただの丸投げはしません。事案の全貌を把握し、その分野について調べ、咀嚼し、そのうえで疑問点などをピンポイントで専門家に依頼することで、他の専門家が速やかにかつ効率的に実力を発揮し、結果的に全体のクオリティとスピードが高まることが期待できるからです。

そもそも「専門」ということでさえ、極めて相対的だと思います。その筋ではどんなに基本的なことでも、それを知らない人にとってはすべて専門的なことなのです。

コンコーダンス

専門性なるものなど極めて相対的だとすると、お客様は、逆に私にない専門性をたくさんお持ちのはずです。

どんなに年下であっても、私と異なる環境で生きてきたのなら、私にないものをたくさん持っているにちがいありません。

お互いに専門性を共有し合うことで、より斬新でより大胆で、よりリスクの少ない解決策を導いていく・・・これが理想だと思っております。

これは、近年の疾病管理における「コンコーダンス」に通じるのかもしれません。コンコーダンスは、患者が疾病について十分に知識を持ち、医師と患者が同意した治療を共同作業として行うプロセスとされています。

コンコーダンスの前提として、患者が十分な知識を持つことが必要とされています。私の業務も専門的とされる事項についていかにわかりやすくお客様にお伝えできるかどうかが生命線と思っております。

このことが、単純に「これはできる」「これはできない」だけの紋切り型のサービスではなく、なぜできるのか、なぜできないのか、できないとしたらどのようにすればできるのか、他の方法はないかどうかをお客様にわかりやすく説明し、ご理解いただき、さらにお客様から新たなヒントを得て新たなプランを検討するのです。

スピード

価値観多様な現代においてもなお普遍的なこととして、人は必ず老いて病んで死ぬこと、そして、時間は万人に等しく与えられていることがあります。

とすれば、いかに早くできるか、同じ時間でならどれだけ高い精度を出せるかどうかが重要ということになります。

このことは、利害対立する関係者に対して優位に立てるばかりでなく、究極的にはお客様の人生の時間をより有意義にできるのです。

客観的情報と当事者の主観的願望の把握→問題点等の把握と調査→具体的な解決、すべてにおいてスピードと精度のバランスを追求しております。

この点、自分で数値や資料を作らず(作れず)、もっぱら他人に依存していれば、スピードは遅くなることが考えられます。 他人に数字や資料を作らせたり、他人が作った(作らせた)数字や資料を利用するばかりではなく、利用する数字や資料を自ら作れるかどうかが重要だと考えます。

いずれにせよ、最終的にスピードの基礎となるのはけっきょくは動物としての体力になると思われます。

過去のリセット

そもそも、すべての仕事はまったく同じではなく、過去の仕事がすべて現在の仕事にあてはまるわけではありません。

年齢を経て人生経験を重ねてくると、世の中やものごとに対する視野が広くなってきます。

ところが、視野が広くなる反面、世の中やものごとを、積み重ねられた人生経験から得られた価値観というフィルターにかけ、先入観で評価することも少なくないように思われます。

実績や経験を前面に出す説く方は少なくありません。

しかし、このことは、世の中やものごとについて誤った評価をし、本質を捉えられないおそれがあります。

あわせて、自分と異なる価値観を受け入れられず、ストレスが生じ、これがさらに本質を捉えることを困難にしかねません。

さらに、専門的職業なるものにあてはめるとより深刻度を増します。

と申しますのも、なんでもかんでもものごとを最初に自分の専門分野(があるとしたらこれ)のフィルターをかけて捉えてしまいがちだからです。

それだけではありません。

自分の専門分野からみた最適解が最善だと考えてしまいがちです。

たとえば、相続対策を例にとりますと、税理士はもっぱら税金(主に相続税や贈与税)をいかに少なくするかという視点から捉えてしまいがちです。

たしかに相続税を安くすることは重要な要素ではありますが、すべての当事者にとって必ずしも最優先ではありません。 そもそも、相続とは、最終的には当事者の外野も参戦しての財産をめぐる人間の欲望の(潜在的または顕在的な)争いです。必ずしも金銭的な経済合理性だけとは限りません。

そこで、私は、いったん過去の経験や先入観はすべてリセットし、まったく白紙の状態で取り組むことを心がけております。

まずは先入観なしで中立的に現状を把握し、そこから立場の異なる各当事者のそれぞれの思惑を織り込んで、最終的に依頼者が最も有利になるような戦略・戦術を立案し実行します。

現場での地道な作業

数字や情報を作る地道な仕事を自分のすることではないとして、他人の作った数字や情報をチェックしたり評価することに優越感を抱く人は少なくありません。

それなりに難関とされる試験をパスしたプライドが影響しているのかもしれませんが、それが間違いだとは思いません。

ただし、たとえば、他人が作った数字や情報をチェックする仕事にしても、自分でも数字を作れる人がするのと、それがしたくない(できない)人がするのでは、仕事のクオリティは相当異なると思われます。

自分がしたくない(できない)場合、結局他人にそれをさせることになりますが、その他人の能力いかんによって、業務全体のクオリティに決定的な影響が出ることになります。

実は、私たちの業務も、最初に事象をどうとらえるかが極めて重要です。ここに、専門的能力の大半があるといえます。

一般に専門家が補助者にさせる現場作業の中には多くのノウハウが含まれるばかりでなく、より根本的な問題が含まれていたり、今のスキームが誤りだとわかったり、よりよい解決策へのヒントがあるものです。

事象から浮かぶさまざまな論点(適用すべき基準や法令など)に対する問題発見力と問題解決力で歴然とした差が出てくるのです。

事象のとらえかたによって基礎的な数字やデータの正確性や精度が全く異なります。

自分がしたくない(できない)場合だと、結局、たとえクオリティが低くても他人が作った基礎的な数字やデータを所与とせざるをえず、これらを基準や法令などの解釈だけでしか対応できないおそれがあります。いくら精緻な解釈を練っても、その基礎となった事象や情報の精度が低いと、前提を失ってあっさりと崩壊しかねません。

私は、多くの専門家が他人(補助者など)に任せてしまう地を這う地味な作業でさえも何ら苦にしません。

事象の的確な把握が基礎情報の精度につながり、それがより的確な判断や戦略が可能になると考えております。

自己否定と徹底的な裏取り

年齢を重ね、経験を重ねるほど、自分の自信なり信念が固まっていくような気がします。

しかし、私は逆に「自分の考えは間違っているのではないか」という気持ちが高まっています。

また、他人の成果物は徹底的に批判しても、自分の仕事が批評・批判されることは慣れていない、耐えられない人は少なくないように思われます。

私は「自分の考えは間違っているのではないか」ということから出発しているため、どんな批評・批判がありうるかを常に考えております。

だからこそ、徹底的に調べを行い、裏取りをします。

自分の作った数値や資料、理論構成や判断に対して想定されるありとあらゆる批判を常に念頭におき、それに対する言い訳、反論、カウンターアタックをイメージしながら練り上げています。

このことは、逆の立場、すなわち、他人様の作った数値や資料、理論構成に対して批判する立場になった場合にそれなりの効果があるのではと思っております。

結局は体力そして健康

いかに能力をもっていても、いかに崇高な精神をもっていても、最終的にはそれを支えるのは体力であり健康と思われます。

よほどの聖人君子でもないかぎり、自分に余裕なくして、他人のことを考えたり、異なる価値観を受け入れることなどできるでしょうか。

その余裕の基礎となるのが、体力であり健康だと思われます。

私は、体力と健康の維持、とりわけ体型の維持にはこだわりをもっております。

時に厳しいことを申し上げなければならないのに、だらしないカラダでは説得力がないからです。